テレ・サンターナの残した物
テレ・サンターナの悲報を聞いたとき、走馬燈のように、テレが指揮したチームが次々と頭に浮かんだ。テレ・サンターナはあっしのサッカー観戦人生において、あまりにも大きな位置を占める。
まず最初に浮かんだのが、はじめてテレ・サンターナのチームを観たとき、79年のパルメイラス。このチームは78年W杯メンバー、FWジョルジェ・メンドンサを要していたスーパーチームだった。
パルメイラス1979。
上段:ホゼミーロ、ジウマール、ベト・フスコン、イヴォ、ポロッジ、ソーテル、下段:アミウトン、ジョルジェ・メンドンサ、トニーニョ、ピレス、ネイ。(中盤の要ジョルジーニョ、とFWバロニーニョが残念ながらいない)
このチームは79年ブラジレイロン準決勝(当時はホーム&アウェーによるトーナメント方式だった)でファウカン要する我がインテルナショナルに敗れたが、2ndLegのパカエンブー・スタジアムで行われた試合はあっしが生涯観た最高の試合の3つのうちの1つに入る。いまの世知辛いサッカーとは違い、両チームとも、それぞれのスタイルを全面に出し、相手の攻撃を受けてたつ。まるで、鉄砲が発明される前の戦に例えられるような、巨人たちの剣のぶつかり合い、壮大なる激戦、ギリシャ神話のエピックと呼ぶにふさわしい。
当時のインテルの監督はエニオ・アンドラージ。このとき、テレ・サンターナがたった1年で作り上げたチームの凄さに子供ながら感心した。以来、テレの名前はあっしの記憶に焼き付いた。実は、後になってテレは77年グレミオの指揮をとり、当時無敵だったインテルを州選手権で破っていた事を知る。チキショー!残念なのは負けたことでなく、テレが一度も我がインテルナショナウを指揮しなかったこと。
もともと右ウィングとして50年代フルミネンセで活躍したテレは62年に引退。67年に同クラブの育成部を指揮。69年にトップチームの監督に就任。71年には故郷の名門アトレチコ・ミネイロで全国制覇。前述のパルメイラス時代ではタイトルこそなかったものの(リオ州にはジーコ、ホベルト・ジナミッチ、サンパウロ州にはソクラテス、ゼ・セルジオ、ミナス州にはトニーニョ・セレーゾ、ヘイナウド、そして南部からはあっしの永遠のアイドル、ファウカンといった英雄たちが競い合い、誰が優勝してもおかしくない、ブラジレイロンの黄金期だった)、いかにテレ・サンターナが高い評価を得たかは、翌年、セレソンの監督に抜擢されたことで証明された。
そして81年のセレソン、いわゆる82年の伝説のセレソン?あっしにとって、この世で最も美しくプレーしたサッカーチーム?のベースとなるチームなのだが、81年にウルグアイで行われたゴールド・カップ(ムンディアリットと呼ばれた、実際は80年12月から81年1月にかけて行われた)に登場したチームは凄かった。優勝こそ逃したものの、そこで呼ばれた選手たちが凄かった。
81年のムディアリットは、FIFAワールドカップ50周年を記念するミニW杯大会(今でいうコンフェデ杯)で、W杯発祥の地ウルグァイで行われ、W杯経験国であるウルグァイ、ブラジル、アルゼンチン、ドイツ、オランダ(イングランドが辞退したため)とイタリアの6チームで行われた、いわゆるマスターズ大会(ディエゴ・マラドーナのA代表でのお披露目もあった)。この大会に参加したセレソンは凄かった。
写真は南米予選のもの(ムンディアリット後、1981年2月22日、対ボリビア戦)。上段ヴァウジル・ペレス、ルイジーニョ、オスカール、エジヴァウド、トニーニョ・セレーゾ、ジューニオル、下段:チッタ、ソクラテス、ヘイナウド、ジーコ、ゼ・セルジオ。
ファウカンが呼ばれていないのは、イタリアのローマでシーズン中だったから。右SBレアンドロもまだいない。なんといっても、MFチッタ、FWヘイナウド、Wingゼ・セルジオの3人のクラッキがいるのが興味深い。当時最高のFWヘイナウド、81年優秀選手ゼ・セルジオ(いまサンパウロFCのユース・コーチだそうだ)の二人は怪我で82年W杯に参加しなかった。つまり、あの“黄金のカルテット”は4人ではなく、もっといた。可能であれば、テレは彼ら全員をスペイン大会に連れていっただろう。
ゼ・セルジオというサンパウロFCでプレーしていた選手は、日本でも知っている人がいるが、リベリーノの従兄弟で、フットサル上がりの凄いドリブラーだった。彗星のごとく出現した彼こそが「フットサルの経験がフルコートで活きる」ことを最初に認知させたプレーヤーだと記憶している。
82年のセレソンについて、何を言えばいいのだろう。敗退したイタリア戦でも、引き分けでよかったセレソンだが2?2のときでも、勝ちにいった。「82年のブラジル代表は守備がなっていなかった」勝手に言わせとけ。試合後、控え室でテレ・サンターナは選手たちに「胸をはれ、お前たちは世界最高のサッカーを披露した」と言った。
翌日、帰国するためにバルセロナの空港に行ったセレソンは、空港を埋め尽くすファンたちに囲まれたそうだ。W杯で負けたチームがいつ、こんな祝福をうけた?当時について、世界中のサッカー愛好家は言う“82年の敗北はブラジルの敗北ではない、サッカーの敗北だった”と。カラザンス氏の言葉では「美しくプレーしても勝てない、と世界中が間違った結論に至った」。あの分岐点から今まで、ずいぶんと遠ざかったものだ。
「82年に優勝したイタリア・チームのスタメンを言える人は世界でどれだけいるのか?でも、私は82年のセレソンを忘れないよ」この言葉は74年に同じように不遇な目にあったオランダ代表のキャプテン、ヨハン・クライフのものだ。
クライフの言葉は偶然ではない、テレ・サンターナは74年のオランダ代表をみて、いかにクラッキたちに“創造する自由”を与えるべきかを学んだという。ついでに言えば、テレの申し子であるジーコも、日本代表で同じことを試みたが、選手からもマスコミからも世論からも理解されていない。74年から32年経ったいまでも、日本サッカーはその域に達している兆しを見せない。だからといって、それは問題ですらない、なぜなら、いまのサッカーでそれを実践できるチームは皆無だから。
いま創造の自由を与えられ、それに応えることのできるプレーヤーは片手で数えられるぐらいかも。20年ほど前はどのチームも絶対的なクリエーターがいなければ存続できなかった。いま選手たちは“命ぜられた役割”をこなす、現代のサッカーは競技の名において質的に、どれほど“貧しく”なったのだろう、それともディフェンダーが進化したのだろうか。ときには、足から足へとボールが行ったり来たりする単なるアホなスポーツに成り下がった気がする。いちばん笑えるのは現代のヘタクソ選手たちが、過去の芸術家たちの100倍近い年俸をもらっていること。
さらに86年のW杯でも敗退したテレ。これで、完全に“負け犬”のレッテルがついた。結局、ブラジル国内でも、最高のジェネレーションを要してなお無冠に甘んじた代償は高くついた。いや、テレ・サンターナを葬る寸前にまで至った。
1986年W杯チーム。上:ソクラテス、エウゾ、ジュリオ・セーザル、エジーニョ、ブランコ、カルロス
下:ジョジマール、ミューレル、ジューニオル、カレッカ、アレマオン(ファウカン、ジーコはベンチ)
それでもテレは自身の信念を曲げなかった「つまらない試合をして勝つぐらいなら、素晴らしい試合をして引き分けた方がいい」。監督として最悪の危機に晒されながらも、テレ・サンターナは理想を諦めるどころか、サッカー人生の集大成となる90年代前半のサンパウロFCに着手する。(次のエントリーに続く)
うー!懐かしいー写真と共に色々振り返っていただいてサンクス!
ムンディアリート:少年時代テレビ東京「ダイアモンドサッカー」で見たのを覚えてます!
ソクラテスなんか始めて見たんじゃないかな?
ゼ・セルジオ!大分後ですが日本でもプレイしましたからねー。うまかった。
82年ワールドカップは忘れられませんね。永遠に。。。
地球の裏側で深夜・明け方テレビにかじりついて見てましたよー。
とにかく光り輝いていたブラジル代表!そしてあの結末。。。
テレ・サンターナ続編に期待です。
あるまじサン、
いやいや、あっしのマニアックな回想につきあっていただいて感謝です。
ムンディアリート観られましたか。あのときのドイツ戦が事の発端だった気がします。あの勝利で自信がついた。82年の前哨戦でしたね。互いに少年時代はいいもの見ました。笑
オスカー、ヘナト、ゼ・セルジオ、とJSL時代(こちらも懐かしい)からサンパウロFCは日本と関係あるんですね。トリコロールにとって、日本はなんとも縁起のいい国であることは間違いないし。
後編もアップしました。
ムンディアリート:ドイツを4対1かなんかで粉砕したんですよねー。
いやあれをテレビで観てたりしたのがきっかけかな?私にとっても、ブラジル代表に惹きつけられるようになった。。
そして81年の終わりスーパーフラメンゴがトヨタカップでやってきて、Zicoはスルーパス通しまくるし、完勝!
んー懐かしい。
実はそれまでは78W杯のケンペスやら、その後ワールドユースでの衝撃のマラドーナ、ディアスやらで、
アルゼンチンファンだったんですよね。。
メノッティが煙草をくゆらせながら「インテリジェンス」なんて語るのも格好よかったし。。
後編も大変興味深く拝見しました。
サンパウロ再建にそんなに大きく携わっていたとは正直知りませんでした。
代表監督(セレクショナー)としての一面しか知らなかったので、
名だたる名選手を文字通り育て上げていたということも驚きでした。
トヨタカップ2連勝!強かったなー!
その前の年かな?スーパーミランが3-0か何かで完勝していて
正直「これからはヨーロッパの方が強そうだな?、南米は選手がどんどん流出してるしな?」
なんて思っていた矢先でしたからね。
バルサやミランとがっぷり組んでねじ伏せたあの試合は感心・感動でした。。
いやいいお話をありがとうございました。
そして改めて、合掌。
あるまじサン、
そうそう、4-1でドイツを粉砕した試合です。向こうには、ルンメニゲなどがいて(今とは違って)強烈なメンツがいましたから。
そのあとヨーロッパ遠征へ行って、イングランド、フランス、ドイツと立て続けに勝ちました。でも、あれがいけなかったかも。もう、完全にマークされてしまった。
当時のアルゼンチン代表を好きになるのは理解できますよ。メノッティはマジで格好良かったですもんね。あのベンチでスーツ着てタバコふかしてる姿。あの鷲顔にモミアゲ、一昔前のイタリアの俳優のようだった。
今のアルゼンチン・サッカー界で、マラドーナに説教できるのもメノッティ翁ぐらいではないですか?ディエギートは絶対、きかないでしょうが。
テレ・サンターナの仕事の仕方は、いまのルシェンブルゴやレオンの仕事のスタイルに大いに活かされているのは間違いありません。テレ・サンターナ元気のままだったら、日本に絶対呼ばれてたらしいですね。
それは、それで面白いことになっていたはず。
わーー、読んでて鳥肌がたって、涙が出てきた。
イタリアにブラジルが負けた日は、本当に悲しかった。
ソクラテスのヘディングシュートがディノ・ゾフにゴールライン上で止められていなければ、、、、、
突然失礼しました。
実はテレサンターなの言葉を捜してここにたどり着きました。
すばらしい内容ですね。
記憶がよみがえってきます。
ありがとうございました。
copamundialさん、
お褒めの言葉、ありがとうございました。
貴ブログも読ませていただきました。
サッカーの歴史的イベントも織り交ぜた、渋い内容ですね。
また、そちらにも、寄らせていただきます。