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PostHeaderIcon ブラジリアン戦術、その1「ポンタ・ジ・ランサ」

とうとう、戦術の話をします。
これまで、わざと避けてきた話題ですが、いま、新しい時代に突入したセレソンを読み解くのに、やっぱり過去のセレソンの戦術の変遷の理解が不可欠だと思いました。
ブラジル人選手の特徴と歴代の代表チームの戦術を知ること。そこから、いま、世界中に散らばっている才能あるブラジリアン・プレーヤーそれぞれの特性に照らし合わせてみること。これは結構、有意義なことだと思いました。
「あの選手も、この選手も代表に呼べばいいのに」とサポは言うが、実際、特徴やプレー範囲の被る選手を同時にピッチに立たせることは難しい。これまで、あっし自身も、間違った認識をしていたことが多々あった。たとえば、ブラジルでは攻撃的なポジションに「メイア・アタカンチ」、「メイア・オフェンシーヴォ」、「メイア・ジ・リガソン」、「メイア・アルマドール」そして「ポンタ・ジ・ランサ」という用語が使われますが、これらについてきちんと認識するのに時間がかかった。
それに、セレソンのナンバリングの順番について、疑問に思ったことはありませんか?もっとも大きな疑問は、なぜ、10番が最も優れた攻撃的選手の象徴になったのだろうか。「それは、王様ペレが付けた背番号だから」。いえ、違います。(一説では、ペレの背番号は偶然に付けられたとありますが)


あらかじめ、言っておくと、あっしはサッカーの専門家、研究家ではありません。ただの素人ですから、完全な知識はありません。本文のすべての内容はブラジルの原文ソースを参考にしました。
まあ、大学の論文ではないから、いちいち全てのソースは表記しませんが、メイン・ソースとして、なんとパヘイラ元代表監督が昨年、セレソンを指揮する傍ら、記した著書「Evolucao Tatica e Estrategia de Jogo」(戦術の進化とゲーム戦略)のリンクをおきます。原文はポルトガル語のpdfファイルですが、図を見るだけで参考になります。それに、一部の図はパクらせてもらいました、パヘイラさんスンマセン。あ、この著書の一部のくだりはイギリスの著書からパクったのではないかと、問題にもなっているそうです。まあ、ここはみんなギブ・アンド・テイクというこで。
パヘイラ著書のpdfファイル
http://www.byweb.com.br/liga/docs/
「あれから40年」のきみまろサンまでをもパクって、
あれから140年。
サッカーの創成期、19世紀後半のイギリスで行われていたフォーメーションは、なんと1?1?8だったらしいです。ゲームはもう、今では考えられないほど攻撃ばっかりで、むしろ非効率。そこで、バックス・ハーフ・フォワードというピッチを3分割する概念をもった2?3?5というフォーメーションが1880年代に導入された。
パクリ図をみればわかりますが、このフォーメーションを見れば、選手たちのナンバリングがもともとどうだったのかがわかります。キーパーが1番、そしてバックス・ラインから前線へ、右から左の順で2,3,4…と、背番号が連なっていきます。ここで、チームの中心的な選手はハーフの5番だったらしい。
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1925年に改正されたオフサイド・ルールによって、ボールを受ける攻撃の選手とゴールラインの間に、それまでの3人(キーパー含む)から、2人の選手(つまり、いまと同じ)が前にいることが条件となった。ここから、数的有利への攻防がくり広げられるようになりました。
昔のオフサイド・ルールなら、それまで前戦に突進してくるFWに2人のバックスで余裕で対応できたのが、新しいオフサイドルールによって、ディフェンスは1対1という局面をより多く強いられるようになった。そこで監督たちは、2人のバックスをライン上に揃えオフサイド・トラップを常に意識させるようにした。
攻撃側も、ライン状になったバックスを両脇から突破するため、最前線のフォワードと同じ高さの左右にフォワードを進め、またしても数的有利を目指した。ここにウィング誕生。と同時に、中盤の高い位置に二人のハーフを残す。
けれど、このW型の攻撃の驚異に堪えるため、ディフェンスは5番のハーフを最終ラインに下げ、M型の守備を形成。ここにスリーバック誕生。この5番こそが、いわゆる、いまのセンターバック。2番は右サイドバック、3番は左サイドバック。
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これが、1920年代、アーセナルを率いるマーク・チャップマンが考案した、かの有名なWM。留意点としては、ようやくピッチ全体を使うゲーム展開になっとこと、そしてマンマーク・ディフェンスだったらしいこと。
やがて、ヨーロッパだろうが、南米だろうが、どこのチームもWM型のフォーメーションを用いるようになり、互いに、ぴったりとマンマークしちゃうものだから、数的有利どころか、窮屈で、マンネリ化しはじめた。そこで、それぞれの国は特有のスタイルを用いて、このWMの変形を考えはじめた。
ここで、やっとブラジル固有の話題に突入できます。ちなみに、WM型のハーフを構成する4人のプレーヤー(4番、6番、8番、10番)のことを当時は「カルテット・マジコ」と呼んだらしい。06年のセレソンのあれは、ここからのパクリ?
ときは、1940年代。リオの名門フラメンゴにジジーニョという8番の選手がいた。ずば抜けたボール運びと支配力で、一躍チームの攻撃を司る中心的な選手となったらしい。この選手を中心に、チームは「守備はより守備力を、攻撃はより攻撃力を」というモットーで、中盤から、4番をさらに最終ラインに下げ、10番を前線のラインに押し上げた。
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中盤は6番の選手と、8番の選手が言ったり来たりする。8番のジジーニョこそが「メイア・ジ・リガソン」(つなぎ役、中盤の要)、いまでいう「メイア・アタカンチ」(攻撃役の中盤)または「メイア・オフェンシーヴォ」(攻撃的中盤)。
中盤の6番の選手もスバ抜けた展開力、キープ力が要求される「メイア・アルマドール」(仕掛け役)。当時は、まだボランチの概念はない。
そして前線にとけこんだ10番こそが、ブラジル・サッカーが生み出した独特のポジション「ポンタ・ジ・ランサ」(槍の先端)。この名称から、単純にFWと考えられがちだが(ポルトガルでは今もそう)、違う。FWは前線で張って、ポンタ・ジ・ランサはFWの後ろから、ときにはメイア・ジ・リガソンのように相手守備陣に仕掛け、ときにはFWとワンツーを交わし、キーパーの前に飛び出すもう一人のFWとしてプレーする。ポンタ・ジ・ランサの出現は、エリア真ん中を一人で守るセンターバックを混乱に陥れたという。そのために、守備にはもう一人センターバックが増え、4バックが考案されたとも言える。
ここにブラジル特有の4?2?4が誕生。ポンタ・ジ・ランサこそがスバ抜けた攻撃センスの持ち主で、高い得点能力を要求される。伝説の監督ジョアン・サウダーニャ氏によれば、最初に出現した「ポンタ・ジ・ランサ」は1930年代にボタフォゴでプレーしていたペラシオ(のち、フラメンゴ、38年W杯出場)と、40年代バスコ・ダ・ガマで活躍したアデミール・メネゼス(50年W杯出場)の二人らしい。
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ただし、サウダーニャ氏が特筆するのは「なぜ、それ以前の誰も、試合中に中盤から飛び出して、いきなりFWになることを思いつかなかったのか?それは、当時のアマチュアのサッカー選手にとって、試合中にそんなに走ることは考えれなかった。サッカーがプロ化したおかげで、サッカーに専念し、試合中により多く走ろうとする選手が出現した」のだそうだ。つまり、ポンタ・ジ・ランサの出現には、今で言うフィジカル要素が影響していたのには、あっしも目からウロコでした。
トスタンは今と昔の選手について言う。「ポンタ・ジ・ランサ」の代表的なのが、もちろん、ペレ、トスタン本人、ジャイルジーニョ、そしてジーコ。全員、チームの得点王にもなったが、典型的なFWではない。
「メイア・ジ・リガソン」、「メイア・アタカンチ」はカカ、アレックス、ジエゴ。「メイア・アルマドール」はジェルソン、ヒベリーノ、アデミール・ダ・ギア、ジルセウ・ロペス、いまはヒカルジーニョ。メイア・アルマドールたちこそ、あっしの一番好きなプレーヤーたち。
この三つのポジションは時とともミックスしあい、兼務されながら、いまでは、かなり似通ってしまい、誤解を招きやすい関係にまでなってしまった。例えば、ジーコをポンタ・ジ・ランサという人もいれば、メイア・ジ・リガソンという人もいる、リバウドもしかり。一方、ヒベリーノはメイア・ジ・リガソンなのか、アルマドールなのか。背番号にしても、ポンタ・ジ・ランサが必ず10番を付けるわけではない。
いずれにしても、当時の攻撃的サッカーからすれば、妥当なネーミングだったらしいし、いかにブラジル・サッカーが攻撃バリエーションに豊富なのかを物語る事実だ。古くからいるセレソン通は、セレソンに招集される選手たちの特徴を観て、これらのネーミングに当てはめることをする。
話を当時にもどして、4?2?4フォーメーションは、同時期のヨーロッパでもハンガリーが54年W杯で世界を席巻し、注目を浴びる。そして、1958年W杯でブラジル・サッカーは戦術面・技術面で世界の頂点を極める。
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上(左から):Djalma Santos. Zito. Belini. Nilton Santos. Orlando e Gilmar.
下:Garrincha. Didi. Pele. Vava. Zagalo、マッサージ師のMario Americo
なんといっても、中盤のジート(メイア・アルマドール)とジジ(メイア・ジ・リガソン)、そして、大会中にポンタ・ジランサの位置に入ったペレ。両ウィングのガヒンシャとザガロ。FWのヴァヴァ。そして、ブラジル流ラテラウ、超攻撃的SBの先駆者、左利きのニウトン・サントス。これだけのタレントが揃ったのは、ブラジル史上はじめてのことだったらしい。残念ながら、このチームの映像はハイライトでしか観れていない。当時を知る人は、このチームは70年のチームの破壊力を上回ったという。
トスタンが言うには、「ペレとガヒンシャ、ブラジル・サッカーの伝説の二人がいた事実だけでも、これが史上最高のセレソン」らしい。
セレソンがヨーロッパ敵地で初の栄冠をつかんだことから、とうとうヨーロッパと南米の拮抗が崩れた。もはや、攻撃力だけを競い合うのではなく、いかに相手の長所を潰すか。4?3?3フォーメーションが誕生し、サッカーの主流はどんどん動きが激しくなる中盤での攻防へと移行していく。そしてとうとう、イタリアでは鍵のついたディフェンスまでもが出現。
<つづく、いつか>

866 Responses to “ブラジリアン戦術、その1「ポンタ・ジ・ランサ」”

  • peixe says:

    フッチさん。  いやぁ力作で大作お疲れ様です。
    改めて思うのは、ブラジルは戦術面においても革新的だったのだなと言う事。 守備戦術もさる事ながら、セットプレーのアイデアまで・・・前エントリーの70W杯を引き合いに出させて頂くなら、チェコ戦のヒベリーノのFKにおいての一連のトリックは当時 見る者全てのど胆を抜いたと聞いております。
    メイア・ヂ・リガソン, アタカンチ, アルマドールに関しては、ポジションと言うよりは、役割・・イヤイヤ選手それぞれの個性とも言えますね。
    毎度毎度非常に勉強になります☆
    カベッサ・ヂ・アーレアが出てくるのは、もう少し後の事ですか?等と思いつつ続編も楽しみにしております☆
    <<一説では、ペレの背番号は偶然に付けられたとありますが>>私、この説を信じていたくちなのですが・・・違うのですか??

  • フッチブログ says:

    peixeさん、
    どうも、どうも。ガーッって書いたんですけど、
    あとで読んでみると、マニアックというか、やっぱり、わかりにくいですね。
    まあ、足りない文才はともかく、やはり、テーマ自身が複雑なんでしょう。
    ブラジル人選手のブラジル人選手たるもの。個人技はもちろん、戦術的にも、最先端のものを取り入れ、なおかつ、最高のタレントを生かそうとする、人々のサッカーに対する情熱。
    理屈はそのつぎ、あっしも言葉で縛るのは、極力避けるつもりです。
    >カベッサ・ヂ・アーレアが出てくるのは、もう少し後の事ですか?等と思いつつ続編も楽しみにしております☆
    「カベッサ・ジ・アーリア」、つまり守備色の強いボランチはいつ主流になったんでしょうね。今度また。
    >私、この説を信じていたくちなのですが・・・違うのですか??
    いえ、58年のペレの背番号は通説どおり、偶然だったと思います。ただ、上の図を見てもわかるように、ポンタ・ジ・ランサに当てられる背番号は、セオリーでいえば10番だった。それが言いたかった。

  • SELECAO says:

    お久しぶりです、近頃はウイイレでセレソン’70の選手をエディットして、ブラジル代表の編成で忙しくしてました(笑)
    できあがったチームの力を試すべく、シミュレーションでバルサとやらせてみたら見事圧勝してくれました!まぁ、本当どうでもいい話ですよねw
    顔を本人に似せたり、能力値をいじったりするよりも、このチームはとにかくフォーメーション設定が難しかったです、映像で確認してみても、みんないろんなところに神出鬼没で、ある程度のところで妥協せざるを得ませんでした。幸いウイイレは割りとトータルフットボールをやってくれるので、結構忠実に再現することができました!
    やっぱワールドカップで惨敗したあとはレトロな気分になるんですかね…
    ところでずっと前から気になったことがあるんですが、70年のブラジル代表に呼ばれなかったクラッキって絶対いますよね?
    RSSSF Brazilっていうサイトで調べてみたら、71年にカンペオナートブラジレイロができる以前は、その前身のタッサ・ジ・プラータという全国規模の大会と、各州の選手権しかなかったらしいですね。ワールドカップ前の69?70シーズンを見てみると、タッサ・ジ・プラータでは上位4チームがパウメイラス、クルゼイロ、コリンチャンス、ボタフォゴの順でした。ところがパウメイラスからはLeaoとBaldochiしか呼ばれず、しかも二人とも出場機会すらなかった。クルゼイロからはPiazza、Tostao、Fontanaの三人が呼ばれ、レギュラー2人・準レギュラー1人でした。コリンチャンスからはRivelinoと控えGKのAdoが、ボタフォゴ(ザガロがセレソン監督就任前に指揮をしていた)からはJairzinho、Paulo・Cesar、Roberto・Mirandaの三人が呼ばれました。
    他にもフッチさんのインテルやアトレチコミネイロもベスト4目前まで迫っていたが、この2チームでは後者からDario1人が呼ばれたに過ぎませんでした。
    逆に下位に沈んだサントスからはCarlos・Alberto、Clodoaldo、Pele、Edu、Joel・Camargoと大量にしかも要所要所使われています。実際彼らは大活躍したわけだし、それを否定するつもりは到底ないのだが、このことは上位チームにも代表に呼ばれてしかるべきクラッキがいたことを示しているんじゃないでしょうか?
    68年ごろからの召集状況も例のサイトでわかるんですが、クルゼイロのDirceu・Lopezや、アトレチコミネイロのDjalma・Diasなど、予選で大黒柱だった選手がザガロ体制になって呼ばれなくなり、逆にボタフォゴの教え子たちを重用するような傾向が見られました。また優勝したパウメイラスの中心選手だったAdemir da Guiaは最初からセレソンと縁が遠かったのも不思議でした。
    僕はこうしてネットで調べたり本で読んだりと、名前しか知らなくて、プレーを見たことがないので、それこそ戦術に当てはめられなかったとかの理由で呼ばれなかったクラッキなど、フッチさん、peixeさん、詳しく教えてください。

  • フッチブログ says:

    そういえば、またしてもエジミウソンの代わりにミネイロが招集されましたね。

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